悲しい誕生日(短編小説)

前置き

こんにちは榎本亮です!

最近は学園ものの長編を書いたり、AIもののアイデアを練っていたのですが、それだと投稿しなくなってしまうので、やはり短編をいくつか書いたほうがいいのかもしれません。

この投稿は日課の一キロメートル散歩をしながら、iPhoneのメモにボイスで下書きをしたものです。

わたしにはこの手法が合っているのかもしれません。

悲しい誕生日

この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、いっさい関係ありません。

 誕生日はあまり好きではない。七月十七日はわたしが生まれた日である。二十九歳。二十代最後というのもあり少し吐息が……
 日課の散歩へ。緑化した楓が繁茂する公園を逍遥するのも好きだが、心の平穏を取り戻すには習慣に身を委ねるのが望ましい。
 日課の一キロメートルのコースにした。
 ハゼラン(三時草)が少しだけ開花している。七月初頭には杏やすもものような鮮やかな小さい丸がいくつもついていたのが、今ではピンク色の五弁の花が美しい。
 吐息の理由はひとつではなかった。誰一人としてお祝いのメッセージがないのである。それも休日なのに、毎年必ず送ってきてくれる数人から。
 わたしには友人と呼べる数がとても少ないが、数の多少に憂悶したことはない。しかし誰一人として、その友人からメッセージがないとなると吐息のひとつも漏れる。
 これまでの社交性の低さ、著しく空気を読まなかった行動や言動の数々を思いだし、わたしのこの人間性にいよいよ愛想が尽きたのではないかと考えてしまう。
 カンナも咲いている。白の縞がどこか幾何学模様で芸術的な大きな葉、わたしより高いとことろで燃えるようなオレンジ色の花を咲かせている。
 いや、実はひとつもきてないわけではない。メッセージをくれた者もいる。
 しかしそれは毎年同じ内容で予め用意しておいたテンプレートの文章をSNSの誕生日の通知を見て機械的に送信しているのだ。
 こういったハッピーバースデーメールはどうも自分を守るために送っているのではないかと思うのである。正直云って苦手な人から送られてくるこの手のお祝いメールは、せっかくの誕生日を毎年台無しにさせる。
 それどころか誕生日の数日前から
「ああ、今年もくるのかな。それしかこないのではないか」
 今年は現実となった。
 お祝いの言葉は気軽に送ってはいけないのかもしれない。心がこもっていないとやはりだめなのである。
 政治家の謝罪と何も変わらない。あの死んだ魚の目と同じくらい言葉が虚ろなのだ。
 連絡をもらえただけ有り難いと思えという気持ちもなくはないのだが……
 気づかないうちにコースから外れ逍遥していると楓の木があるところまで来ていた。
「ああ、安穏な気持ち」
 こんなわたしにも毎年お世話になっている先輩からメッセージがある。その繋がりがひとつあるだけでも誕生日はいいものなのかもしれない。
 では本当にひとつもない人はいったいどうすればいいのだろうか。そういった人たちにかける言葉は今のわたしには見つからない。
 しかしひとついい打開策はあると思う。
 人生に遅すぎるということはない。友達や尊敬する人はきょうから見つければいいと思う。諦めるのはまだ早い。それを糧に頑張ればいいのだ。
 やはりいつの時も一歩前に踏み出すというのが大事なんだろう。

あとがき

夕方から一気に書きました。

かわいいランタナの花を書くの忘れていました。

これやっぱりエッセイになってない?

えの
有り難うございました!
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